おたより
Q

罪悪感を痛みで帳消しにしようとするのは、甘えですかね?
甘えでありその上で人は甘えてもいい、って感じですかね?

罪悪感を痛みで帳消しにしたいというのは、キーさんがカーに言ってくれる大きな甘えのひとつだと思います。私はそれを愛おしく思います。

人は甘えてもいいというか、甘えてもいい相手や場所、環境を探していくのが生活だと思います。それがあると安心するし、ないと不安になるのが人間です。だから、自分がキーであると自覚のある大人が、カーを見つけ、その相手に罪悪感を痛みで帳消しにしたいと、そのためにお仕置きをお願いすることは、とっても素敵なことだと思います。私はそうやってキーさんに甘えてもらうのが大好きです。

もしかしたら質問者さんは「甘え」という言葉をネガティブな意味で使っているかもしれません。甘えはあるよりない方がいいもので、甘えなければより良い方向に進んでいけると、そういう捉え方も存在すると思います。イメージするとすれば、持久走の、あまりに苦しくて走るのをやめて歩いてしまうあの瞬間、そういうものを「甘え」として捉えているかもしれません。

しかし人生は持久走ではありません。暖かい場所があり、美しい場所があり、厳しい場所があり、人間は様々な場所を回遊していくものです。暖かい場所は必要です。それがキーさんにとってカーがいる場所であるなら、そんなに素敵なことはないと、カーである私は思います。

それはそれとして、罪悪感が発生しているとき、少なくとも本人の中では、何らかの「罪悪」が認識されています。その罪悪が他者から見て本当に「罪悪」なのかは置いておいて、キーさんにはその「罪悪」が認識されている、ということにも留意しなくてはいけません。
罪悪感を痛みで帳消しにしたところで、「罪悪」そのものは免罪されません。人に迷惑をかけてしまったら、自分がどれだけ痛い思いをしたとしても、迷惑をかけられた人には関係がない。そういうことへの無力感から、「甘え」という発想が出てきたのかもしれません。

それそのものはその通りです。この世には、何かを帳消しにできる方法は存在しません。時間は巻き戻せないからです。しかしそれは、お仕置きを受けても受けなくても同じことです。
善い方向へ進んでいきたいと思うのなら、罪悪が発生したときには、それを帳消しにしようとするのではなくて、同じような罪悪が発生しないために何ができるのかを考えなくてはいけません。それはお仕置きを受けて痛みを感じても、そうでなくとも、同じことです。私たちは善くあるために考えなくてはいけない。
罰を受けたからといって、それだけで反省が完了するわけではありません。でも、だからといって、いつまでも罪悪感を抱えて苦しみ続けることが善いわけでもないと私は思います。
考え、反省し、改善を目指すうえで、決心や反省や罪悪感の軽減のためにお仕置きを受けることは、責任から逃げるという意味での「甘え」と呼ぶようなものではないと思います。ただ、信頼する相手に自分の弱さを預けるという意味では、それは大きな甘えのひとつだと思います。
そして、それは一部の大人(私たちはそれをキーと呼びます)が、善性を目指すために必要なものであると私は考えています。

そもそもカーというのは、キーさんが反省のためにお仕置きを受けようと思うことを、どうしようもなく正しいと思ってしまう人間です。だから、この世界にカーが存在する限り、痛みによって罪悪感を軽くしたいと思うことを「甘え」と切り捨てない場所が、この世には存在します。